大阪城の巨石(鏡石)を見てきた|その大きさに圧倒!!

旅行
蛸石(高さ5.5m、幅11.7m)とスギたろう兄弟

先日、久々に大阪に行く機会があり、歴史探訪を楽しんできた。

ボクら夫婦ともに歴史探訪は大好きで、他県を訪れる際には出来るだけご当地の博物館などを訪れている(単なる趣味で、学問的造詣を深めると言った意図は全く無い)。

初日は、国立民族学博物館で、ここは2回目だった(👹は3回目)。規模が大きく内容も充実しているので、丸1日かけてゆっくり見た。今のところ最もお気に入りの博物館で、何度行っても飽きることがない。


国立民族学博物館の入口

2日目は、大阪歴史博物館大阪城(前者は初めて、後者は高校の修学旅行以来2回目)。いずれも、なかなかの見応えで、1日2か所では時間が足りないくらいだった(ここは、兄が案内してくれた)。

 

…さて、歴史を訪ねることの醍醐味の一つに、ビックリするような発見がある。毎回、驚かされることがいくつかあるが、今回、特に「スゴイ!!」と思ったのは、大阪城の巨石だった(正式名称は「鏡石」)。

一体、どの様な理由と方法でこんなでかい石を置いたのだろう?

…見ながらあれこれ妄想してしまった。

巨石(鏡石)を置くのはなぜ?

大阪城内の石をすべてカウントすると、100万個にもなるといわれている。

その中で、鏡石は、お城における出入口に集中して置かれている(以下の図を参照)。


鏡石」の設置場所(※「日本史あれこれ」さんのブログより引用)

 

そして、このようなお城の出入口を「虎口(こぐち)」と言う。

上図で示す様に、お城の正面開口は、当然に城内の軍勢にとっての出入口であると同時に、城攻めの際には寄せ手が肉薄する攻防の要所となる(Wikipediaより抜粋)。

そこで、様々な仕掛けが凝らされたのだが、それらが発動する前に、攻めてくる敵に対して心理的な揺さぶりをかけたい。
つまり、戦わずして、城主の力を知らしめるための「ポイント」を設置しかった。
それが、「鏡石」だったのである。
(※主として「城びと」を参考に記述)

 

その大きさは?

以下、大阪城の「鏡石」をベスト10形式で列記してみる。

このランキングは、昭和49年に大阪城天守閣の館長を努めた渡辺武氏によって発表されたのが最初らしい。(お城めぐりFANより)。

竜石(10位)

高さ3.4m、幅6.9m、表面露出実面積約23.0㎡。桜門枡形にある(上の図を参照、以下同様)。

桜門四番石(9位)

高さ6.0m、幅5.0m、表面露出実面積約26.9㎡。桜門枡形にある。

大手三番石(8位)

高さ4.9m、幅7.9m、表面露出実面積約35.8㎡。大手門枡形にある。

京橋口二番石(7位)

高さ3.8m、幅11.5m、表面露出実面積約36.0㎡。京橋門枡形にある。

碁盤石(6位)

高さ5.7m、幅6.5m、表面露出実面積約36.5㎡。桜門枡形にある。

大手二番石(5位)

高さ5.3m、幅8.0m、表面露出実面積約37.9㎡。大手門枡形にある。

大手目付石(4位)

高さ5.1m、幅11.0m、表面露出実面積約48.0㎡。大手門枡形にある。

袖振石(3位)

高さ4.2m、幅13.5m、表面露出実面積約53.8㎡(33畳の広さ)。桜門枡形虎口の西面にある。

肥後石(2位)

高さ5.5m、幅14.0m、表面露出実面積約54.2㎡(33畳の広さ)。京橋門枡形虎口にある。

かつては加藤清正が運んだといわれていたので肥後石と呼ばれたが、岡山藩の池田忠雄の丁場なので、正確ではない。なお、石の下部には、鉄製のくさびが打ち込まれている。

蛸石(第1位)

高さ5.5m、幅11.7m、表面露出実面積約59.4㎡(36畳の広さ)。桜門枡形にある。

重量は108トン、厚さは約75cmとされる。徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、岡山藩の池田忠雄によって築造された。裏側から蛸石の上部(多聞櫓跡)に登ることができるので、蛸石が板状の石であることが垣間見られる。名前の由来は、向かって左下の石の表面の模様ではないかと言われている。

下の写真が実物だ。全体を入れるために30mくらい手前から撮影している。すぐ横に(物差し替わりとして)誰かに立ってもらえば良かった(兄?)。

「蛸石」の全景

 

どこから、どうやって運んだ?

さて、これら100トン前後もある鏡石は、どこから、どうやって運ばれたのだろうか?
あまりにも壮大であり、想像するだけで気が遠くなりそうだ。

どこから?

色々調べてみると、お城の石垣に使われる石材の産出地(石切場)がどこにあったのかを書き残している史料は、たいへん少ないのが実情だ。

…そんな中で、以下の様な記録が残されている。

大阪城の巨石の多くは花崗岩が使われているが、近くに花崗岩の産出地はないので、生駒山や六甲山、または瀬戸内海の島々から運ばれた。特に全島が花崗岩でできている瀬戸内海の小豆島や犬島は、石材の格好の供給地なので、産出地の可能性が高い。少なくとも、上で説明した大阪城最大の「蛸石」やNo2の「肥後石」は、小豆島や犬島から運ばれた様だ。

(※「城びと」や歴史研究家山本和幸さんのブログを参考に記述)

どうやって?

100キロ以上も離れたところから、水陸併用で100トン前後の石を移送するのは、言葉では言い表せないほど大変だったはずだ(にわかには想像できない)。

しかし、その方法も、多くの研究者たちが調査してきたにも関わらず未だに不明な点が多い。

その中で、肥後石に関しては、歴史研究家の山本和幸さんの調査により以下の様な事が分かっている(以下、同氏のブログを抜粋)。いくつか他の資料を見ると、他の石も概ね同様だったと推察される。

どのようにして100トンもあるような花こう岩を運搬したのか、唯一残っていたのが、筑前黒田藩の記録で、概略以下の様なものだった。

(1)海路: 瀬戸内海の島々から大阪城までは海路で運ばれた。大きな筏(いかだ)をつくり、その下に綱で吊り下げて運んだ様である。筏の周囲には空樽などを浮かべて浮力を増していた様だ。海が荒れるとたびたび転覆したり沈没した(大阪に入ってからの川筋でもよく沈没事故が起きていた)。

(2)陸路: 切り出しから海岸までと大阪から石積場までの陸路は修羅(木々を組んだソリのことで)を使った。太さ4~5寸(1.2m~1.5m)の硬い木を格子状に組んで梯子状の枠木の上に石を乗せ、修羅の下には丸太を置いて引いていたようだ(以下の図が分かりやすい)。

※イラストは香川元太郎氏

 

そのほか、過去にいくつか報告されているので、興味のある方はご覧いただきたい(「 アルケミストは考えた」さんの記事より)。

徳川期大坂城石垣の石積み施工技術に関する考察 (1996)

徳川期大坂城石垣築造時の岡山県牛窓町前島石切丁場遺跡調査 (1997)

徳川期大坂城石垣築造順序と工法に関する考察 (1997)

 

おわりに

今回は、大阪城の巨石鏡石)を対象に、一体、どんな理由と方法で〝こんなでかい石”を置いたのだろう?

…と言う好奇心から記事を書いてみたが、一見してお分かりの様に、とても大雑把であり不正確な部分も多い。

なので、詳しく知りたい方は、ここに挙げた文献などを足掛かりに研究を深めていただければ幸いである。

 

…何だか論文のまとめ口調になってしまった(職業病?)。

こっちの方が良いかな?

この記事が、大阪城に行かれる方の露払いにでもなれば、とってもうれしい

 


愛車とボク

 

おわり

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